Nippoku Style | 親を思う子の気持ち
 
 今回の地震で泊まり込んでいた日曜日の夜も、まだ電気は来ていませんでした。一緒に泊まっていた職員と、真っ暗な事務室でストーブを囲んで話しているとき、二つ隣の応接室に置いてある電話機がなり出しました。あの地震以後、校内の電話交換機がおかしくなってしまったのか、本来外線電話が入ってくるはずの事務室の電話機ではなく、内専用にしか使えないはずの応接室の電話機に、時々外線が入ってきました。勿論、その時点では、どの電話機からも外部に発信することはできませんでした。
 その電話は、両親の安否を心配する○○県に嫁いでいる娘さんからでした。
「はい、日立北高ですが。」
「突然の電話で申し訳ありません。そちらは、避難所になっているでしょうか。」
「はい、近くの方が批難されていますよ。」
「こんな時間に申し訳ありませんが、○○○○が避難しているかどうかわかるでしょうか。」
「ここから避難所が離れているので、電話をこのままにしてください。今見てきます。」
「はい、よろしくお願いします。」
 一緒に泊まっていた職員が駆け足で避難所を見に行きましたが、その方は結局避難されていませんでした。
「今見てきましたがいらっしゃいませんでした。」
「そうですかぁ。地震が起きてから何回も電話しているんですけれど、全然電話に出ないんです。どうしたのかなぁ・・・」
「お住まいは日立北高の近くなんですか?。」
「はい、川尻町○丁目○番○号なので、一番近いのが日立北高なんですよ。他にも避難所はありますか?」
「はい、豊浦小学校と豊浦中学校にもたくさんの方が避難しているようです。」
「わかりました。そちらに電話してみます。」
 電話を終えて事務室に戻った私たちは、再びストーブの炎に照らし出されるお互いの顔を見ながら、今の電話について話していました。結婚して遠くに離れ、大地震のニュースに親の安否を気遣っている娘さんの心境を話しているうちに、「みんなが避難所に避難しているわけではないから、その方も、自宅にいるのかもしれない。時刻は10時を過ぎているけれど、今から行ってその住所にいってみよう。」ということになりました。
 電気がきていないので真っ暗な中を、懐中電灯の光を頼りに二人でその住所へ行ってみると、確かに○○と言う名前の表札がかかった家がありました。駐車場には自家用車もあるので、暗い中、自宅で休んでいるようです。
 時刻は午後10時を過ぎていたのですが、思い切って、玄関をドンドンと叩いてみました。インターフォンがあっても、停電なので使えません。「こんばんわー。日立北高の者です。」といいながら、何回かドンドンとドアを叩きました。中から返事がなかったので、「いそうもないから帰ろうか」と帰りかけたとき、中で人の気配がしました。
「誰ですか?」
「日立北高の者です。」
「日立・・? 何か用ですか?」
「○○さんという方から電話があったので連絡にきました。」
「ああ、それ私の娘です。」
「○○さんから学校に電話がありました。」
「今開けますからちょっと待ってください。」
 そう言いながら、電話をされた方のお父様が出てこられました。お母様も、中からこちらを見ていらっしゃいました。私たちは、娘さんが何回もお二人の所に電話をかけてもでないのでとても心配しており、避難所になっている日立北高に、お二人が避難していないかどうか電話してきたことを話しました。
 お二人とも私たちの話を聞き、自分たちも何とか娘に無事でいることを伝えたいと思って電話をかけ続けていたけれど、電話が全くつながらないので連絡できなかった、と言うことを話してくださいました。
 娘さんが両親の安否を心配する一方で、御両親も、何とか自分たちの無事を娘に伝えたいと必死だったのです。しかし、お二人の携帯電話は繋がりにくい状況が続いた会社のものだったので、それが叶わず悶々としていらしたようです。そこで、その場で私の携帯電話からかけたら直ぐ娘さんに繋がり、お二人とも堰を切ったように、電話の向こうの娘さんと話されていました。
 お二人と娘さんの間で話が一段落したので、私たちは急に訪れた非礼をお詫びしながら帰ってきましたが、お二人とも暗い中を、わざわざ門の所まで送ってくださいました。
 その方の家から学校まで、私と一緒に行った職員は、遠く離れている子どもが親のことを心配する気持ちについて話しながら歩いていました。何気なく上を見上げると、月が明るく光っていたので懐中電灯を消し、自分たちの影が見える月明かりの中を、何となく晴れ晴れとした気分で学校まで戻りました。


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